天澤院について

天澤院とその沿革の歴史

瑞龍寺の歴史

天澤院は岐阜市寺町にある瑞龍寺の中にあるお寺です。瑞龍寺には六つ塔頭寺院があり天澤院はそのうちの一ヶ寺です。裏手には金華山がそびえ立っており、山頂には岐阜城があります。この地には古くから寺院があり、平安時代頃には厚見寺(天台宗)という寺が存在していたと伝えられており、五重の塔を有していた広大な寺院であったといいます。現在もその五重の塔の礎石(塔心礎)が瑞龍寺の参道に残されています。

その後、時は流れて室町時代の頃には厚見寺は廃寺となっていました。応仁年中(1467~1469)に犬山瑞泉寺の臥龍庵に入っていた悟渓宗頓和尚がこの地に訪れた際に、旧知の仲であった美濃守護代斎藤妙椿にここを禅の修行地にしたいという話をしました。これを受けて妙椿は尊崇する悟渓和尚の為に主家の美濃守護土岐成頼の菩提寺を建立し、ここに悟渓和尚を開山として請じました。これが瑞龍寺の始まりです。瑞龍寺はその後、信長の美濃侵攻等の幾度の兵火、明治の濃尾震災、太平洋戦争における岐阜空襲により焼失を繰り返してきたが、その都度再興され、現在も修行道場としての灯をともしています。

天澤院の歴史と由緒

天澤院は室町時代に悟渓和尚(瑞龍寺開山)が禅学布教のために大徹堂(現在の禅堂)を創立したのがはじまりとされています。永禄元年(1558)に、別庵を建立して瑞微庵と号し、法孫である天瑞和尚によって開基されました。 天瑞和尚の後九世住職が続きましたが、その後は無住となりました。

江戸時代になり文化2年(1805)、名僧隠山和尚によって庵号を天沢庵と改め、雲水が修行する僧堂である叢林を開くと、天下の雲水が集まる道場となって、地方精神文化の発祥地として宗風を大いに振るいました。
明治24年(1891)、濃尾大震災のために諸堂が倒壊、翌年の4月に僧堂を瑞龍寺の境内に移転しました。大正12年(1923)の仙室和尚の代に本堂・庫裡が再建されたことで本来の姿に戻りました。そして昭和10年2月、寺号を現在の天澤院と改称しました。昭和20年には岐阜市大空襲の戦災によって諸堂宇がことごとく焼失してしまいましたが、檀信徒たちのお力によって本堂・庫裡を再建することができました。
その後、五十有余年を経た平成10年12月、22ヵ月に渡る工事を終え、本堂を改築。現在は多賀 正浩和尚を経て、天安 宗道和尚が法務を取り行っております。

  • 明治24年の
    濃尾震災以前の僧堂

  • 濃尾震災の後に大正10年に
    建て替えられてる最中の本堂

  • 戦災の後から平成に
    建て替えられるまでの本堂

寺町近郊の歴史

瑞龍寺は先述の通り悟渓和尚により修行道場として建立されましたが、戦国時代においては岐阜城を守る前線基地としての役割も果たしていました。その為、門前の寺町は敵の侵入を防ぐため道が鉤状になっております。また、裏手の瑞龍寺山にはかつて砦があったとも伝えられています。

寺町では毎年「梅まつり」が催されます。瑞龍寺から東に少し歩くと梅林公園があり梅が咲く2月から3月頃は多くの人でにぎわいます。瑞龍寺は修行道場である為、普段は立ち入り禁止となっていますが、この梅まつりの開催期間だけは拝観ができます。瑞龍寺の境内にもしだれ梅や緋紅梅があり、見事な花を咲かせます。

歴代ご住職

  • 瑞徴庵(草創期)
  • 天沢庵(中興期)
  • 天澤院(近世期)
住職名 歿年月日 経歴
創建 悟渓宗頓 天文10年10月15日

(経歴がはいります)

開基 天瑞瑞徴
月湖恵満
東月祖岑
徳翁慈盛
絶泉温公
警林智策
絶泉温公
徳雲祖門
霊樹智根
撲道禅魯
答厳祖応
統庚
(この後暫く無住)

ご住職について

  • 創建 悟渓宗頓

    ご住職についての説明がはいります

住職名 歿年月日 経歴
中興開山 隠山惟琰
雪関紹珠
棠林宗模
遂安宗寔
雪潭紹璞
万寧玄彙
薩門宗温
綾洲至道
敬沖文幢
禅外道倫

ご住職について

  • 中興開山 隠山惟琰

    ご住職についての説明がはいります

住職名 歿年月日 経歴
朝道子元
仙厳文芝(東山文芝)
仙室崇賢(多賀仙室)
雪庭祐関(多賀雪庭)
多賀正浩
天安宗道(現住職)

ご住職について

  • 朝道子元

    ご住職についての説明がはいります

境内案内

天澤院は岐阜市寺町のが豊かな場所にございます

寺町について

寺町ってなに?

岐阜市寺町にある瑞龍寺とその大門内にある7ヵ寺、一帯に多くの寺院があったため寺町という地名がつけられました。

岐阜城と関係あるの?

瑞龍寺は岐阜城の南側に位置するため、岐阜城を攻めてくる軍勢の通り道にあたる。信長が岐阜城を攻略したときを含め何度も戦に巻き込まれて燃えてしまった。

山の上に遺跡がある?

瑞龍寺の裏にある山の山頂には、弥生時代にこの辺りを治めた王様のお墓がある。はるか昔から、この土地には人が暮らしていた証拠、戦国時代には山頂付近に砦が築かれた。

年行事

天澤院で行っている行事は7月6日の施餓鬼会のみとなっています。また令和元年度より年2回春と秋に襖絵「双龍図」の一般公開を催しています。
春は「梅まつり」と同日に、秋は彼岸の頃に開催させていただいています。(現在はコロナの為開催を見合わせています)